前回、娘は大人とは違う世界観で生きているという話をしましたが、その続きになります。
このブログは、
軽度知的障がいを持つ高校生娘の記録です。
知的障がいと分かったのは3歳8か月の時。
田中ビネー:64 wiskⅤ:70前半です
(療育手帳取得済み)
特別枠を利用し、公立高校に進学。
運動、おしゃべり好きな女子に成長しました。
時間の把握
前回の記事では、言葉と漢字の結びつきの話をしましたが、時間についても、子どもの世界観を把握するのに苦労しました。
私たち親側からすれば、1時間後は1時間後だし、時計で考えれば針が1つ後になるだけだし、「○時○分」で考えれば○時の〇の部分にを1足すだけです。でもそれが1セットで当たり前。
けれど、子どもの世界ではそれはとてもあいまいで、必ずしも1セットとして認識されて、インプットされているものではないと理解したのは、やっぱり子どもが小6~中1になった頃でした。
これも例を挙げますが、
「明後日」という言葉、ありますね。これもあいまいでかなり危うい。私からすれば、明日の次の日でしかないので簡単なことですが、抽象的な言葉のイメージを持つのが苦手、と前記事で書いたように、物理的に存在する「猫」とか「車」とかは頭に描けて理解でき、それとは違う抽象的な概念は子どもはなかなか理解できません。
よくわからないから本人は明後日という言葉を使いませんし、「明日の明日」とも言えません。一方で、親や周囲の人間が「明後日」というと、子どもはなんとなく周りの空気を読んでわかった風に流すので、こちらは「わかっていて当然」と思ってしまいます。
だから、
なんでわからないの? →教える →理解できない、覚えられない →また怒る
というループすることになります。
何年か経って、何度も何度も繰り返して、ようやく「時間」というものがそもそも難しいもので、親側が頭の中でイメージとしてつかんで、感じている「時間」というのは子どもの世界にはもっとあいまいに存在しているものだと理解しました。
とにかく、目に見えないものをつかむこと、イメージすること、把握することができないんです。
子どもにとっての1分後は親の感覚での1分後や時計の1分後とは違うものなのかもしれない。そのうえで子どもに私たちの世界の1分後をどう共有したらいいんだろう、と思えるようになったのは大きな発見でした。
療育の先生に砂時計をお勧めされたことがありましたが、それも目に見えない時間を見えるもの化する手段の1つでした。
こんなこと、普段は考えませんよね。考えもしないことを考えて、説明して、相手の理解を確認して…とても根気のいることです。
でも、手を離すわけには、行きませんよね。わが子だから。
(3/3に続く)